イスラム教徒におけるヒジャブとは 視点を変えることによって見える事実
イスラム教徒は主に中東などで一般とされている宗教で、唯一神であるアッラーに対して信仰をとく宗教です。こんかいはその宗教の信者であるムスリムの女性が身に着けるヒジャブが世界各地で問題になっていることに対して記載していきます。
ヒジャブと世界的問題
ヒジャブ
ヒジャブとはムスリムの女性が着用するスカーフのようなもので顔に巻き、様々な種類の巻き方があります。ヒジャブの他にもブルカといった言い方があります。着用の仕方は人によって異なり、顔全体を隠すタイプもあれば、頭部と後ろだけを隠すタイプもあります。
ではなぜこのような格好をするのかですが、まずヒジャブの意味から見ていきましょう。ヒジャブは遮断や障害、覆うものといった意味があります。ではそれは何を遮断するのかというところなのですが、イスラム教には女性は装飾を見せてはならないといった教えがあります。
また女の信仰者たちに言え、彼女らの目を伏せ、陰部を守るようにと。また、彼女らの装飾は外に現れたもの以外表に現してはならない。また彼女らの胸元には覆いを垂れさせ、自分の配偶者、父親、配偶者の父親、自分の息子、配偶者の息子、自分の兄弟、兄弟の息子たち、姉妹の息子たち、自分の女たち、自分の右手が所有するもの(奴隷)、男のうち性欲を持つ者ではない従者、または女の恥部を知らない幼児を除いて自分の装飾を表に表すことがあってはならない。
クルアーン 24章31節
イスラム教に対するネガティブイメージはどこから?
世界では様々な事件が多発していますが、やはり目につくのはテロなどといった犯罪でしょう。そしてそのテロ行為の中にムスリムが主体的となって行った事件がいくつかあります。それにより、少なからずイスラム教に対してネガティブイメージを持つ人がいます。
9.11
イスラム教が危険な宗教であると誤認識されるようになり始めましたのは、9.11事件は世界中で大々的にとりあげられた事件からです。これは世界中でもとても大きな事件で多くの人々にショックや影響を与えました。そして事件の首謀者がムスリムであったことから、ネガティブなイメージが付き始めました。
ムスリムの実際
上記のようなイスラム教徒が起こした事件はいくつかあります。しかし、それが大きく取り上げられているためにイスラム教が危険であると認識されるようになっただけであり、実際はそのような事件を起こしているのはごく少数の過激主義者やテロリストだけなのです。つまり、テロを起こした人々が代表となっているように見られることで、イスラム教全体が危険視されてしまうのです。
私たちの海外での行動は日本人を代表として見られていることがこれでよくわかり、私たちも適切な行動をとらなければ日本人全体がネガティブなイメージで扱われてしまうようになります。
ヒジャブの問題点
1980年代までヨーロッパでは多くの移民受け入れを行っていました。もちろんその中にはムスリムも存在し、多くのヒジャブを着用した女性もいました。そんな中1980年代以降、ヨーロッパでは不況により移民受け入れを中止しました。すると人道上の理由などにより移民が増加し、ヒジャブを付けた女性が急上昇しました。
ここでフランスにフォーカスを当ててみましょう。上記のような状況の中フランスは宗教上の理由により宗教を表すものを世俗的な公共領域で望ましくない、男女平等といった考えと合わないという理由でブルカ禁止法が生じ、フランスだけでなくヨーロッパの至る各地でヒジャブが禁止されるような状況となりました。イタリアなどでは学校でのヒジャブ着用が禁止され、看板にされるほどであったりもします。
視点の違いによって見える事実
ムスリム以外の視点
ムスリム以外の人々はヒジャブを着用していることに対し、『なぜ肌を隠すのだろう?』『肌を隠したり、ヒジャブを付けたりすることは男性の抑圧的支配を強調している』といった意見もあります。ヒジャブを付けることのほうが男性の支配を正当化していると考えが多くいです。また、それにより、違う観点にはなりますがその国の文化を否定しているといったようにとらえる人々もいます。
ムスリムの視点
上記の意見に対しムスリムはヒジャブに対し、『女性の身体の管轄権の男性への主張』『外見ではなく内面の評価を表し、男女平等を表している』といった考えが多いです。ムスリムは男女平等を表現する方法としてヒジャブを使用しています。
お互いの視点を合わせたことで見える事実
結果としてつまり、ムスリムもそれ以外も同じ思想を持っており、男性の抑圧的支配にたいして女性の平等性をどちらも持っています。しかし、表現のしかたの違いによりムスリムは消極的であると捉えられたりします。
逆にムスリムはヒジャブを付けず、肌の露出が多く、格好を気にしている女性に対し男性の抑圧的支配、つまり外見で判断したりすることに対し肯定していることを表していると考えるのです。
この事実はどちらの意見も取り入れ比べることで分かることであり、偏見や固定概念によって事実が隠されていることが分かります。